中林一仁

2018.3.6(火) ブログ、書くの久しぶり(*≧∀≦*)スランプかも...

f:id:kazu7804:20180306133611j:image

    今日は、3月6日(火)。24節気では、「啓蟄」にあたる。

   一昨日は、ほんとうに暖かくて、夕方のニュースを見てたら25度の夏日になったところもあったらしかったけど、今朝は一転して、かなり寒かった(*≧∀≦*)一昨日が暖かすぎたのと、今朝は曇ってたから余計にヒンヤリと感じたのかも🙁

  せっかく、土の中から這いだしてきたカエルやら、トカゲやら虫たちも、慌てて土の中に戻ろうとしたん違うんやろか?

   でも、待てよ❓❓カエル🐸って、土の中で冬眠する習性なんかあったかな🤔また調べておこう。

    ただ、昼からは晴れて☀️風もなく、少しだけヒンヤリするけど、とても気持ちいい天気になった^_^暑がりな私には、ちょうどいい感じ。

   ただ今、昼の2時。ダンスのレッスン場に向かう途中にあるタリーズコーヒー☕️で、アイスのソイラテを飲みながら、この記事を書いている。今日は、昼から休みをもらい、17時から今までには受けたことのないインストラクターのレッスンを受けてみようと思った。

  最近は、ダンスのレッスンの他にも、バレエのレッスンやら、月に2回だけやけど、絵画教室に通ったりしてて、パーソナルトレーニングも週1であるし、暖かくなってきたので、テニスも再開しんとあかんし、ほんまに忙しい。なんかじっとしてられへんのは、性分なんかな?

   それで、そうそう、このブログも書かな書かなって気にはなってたんやけど、なかなか何を書いていいのやら悩んでた。スランプかな?

   でも、とりあえず、なにか書かないと、ほんとうに書けなくなりそうなので、新年、2回目の記事は、ニーチェの哲学のことを書くことにした。だって、このブログのアクセスを見てたら、私の個人的な意見や主張よりも、何かの本から引用してきたものの方が需要があるというか読まれてるみたいなんで...

  ニーチェに関しては、実は何も知らなかった(*≧∀≦*)ニヒリズムの厭世的なイメージで、独特の世界観で人間を観察してて哲学の世界でも異端児扱いされてるくらいにしか思ってなかったけど、「マンガで分かるニーチェ」を読んでみたら意外にもニヒリズムとは真逆で、「人生」を肯定的に捉えて、「人間がいかに力強く生きていくのか」といったことや、人間の心の奥底に潜む感情に対する鋭い指摘なんかが共感できて好きになったんやった。

  だだ今、18時30分。ダンスのレッスンが終わった(*≧∀≦*)😋さすがに、この時間だともう暗い。

   いつものとおり、東通りを阪急の梅田駅に向かって歩きながら、すれ違う人たちを観察しながら今日受けたレッスンのことを考えてた。

    レッスンは、1時間のJazzの基礎レッスン。

     ストレッチに、アイソレーション、バレエの基礎的な動作なんかも取り入れられてて、最後の20分くらいで簡単な振付を踊らされた。

   案の定、男性は、私以外に誰もおらんかった。若い女の子ばっかり、10人くらいかな?でも、誰からも何も言われないし嫌な顔をされることもない^_^みんな、ダンスのレッスンに一生懸命で他人のことなんか気にしてないんやな。きっと...

    それから、韓国から来たらしい、女の子3人組の中に、一際、綺麗な女の子がおったなあ(*≧∀≦*)

   先生も、片言の英語で、その子らに話しかけてはったけど、反応は薄くて、あまり喋りはれへん。緊張してる感じではなかったけど...

    私も、片言の英語で話しかけてみたいなあって思ったけど、そんな雰囲気ではなかったので辞めておいた(*≧∀≦*)

    まあ、ともかく、レッスンは基礎的なことをバランスよく取り入れてくれてはったし、音楽も自分の趣味に合ってたから良かったと思う。

    ニーチェの話に戻ろう。ニーチェは、1844年から1900年まで生きたそう。わずか、24歳で、スイスのバーゼル大学の教授になったんやけど病弱で教職は、わずかに10年で辞して、残りは病気療養のためにヨーロッパ各地を転々と旅しながら思索と著述を続けたそう。最後は発狂したって聞くし、あまり、恵まれた人生ではなかったんかな?

    実は、あのアルフレッド・アドラーが1870年生まれの1937年没なのでニーチェと生きた時期が重なっている。しかも、よく似たことを言っているので、アドラーニーチェの影響を受けた可能性があるんと違うかな?と思った。そして、ニーチェ自身は、ショーペン・ハウアーという別の哲学者の影響を大きく受けていて、そのショーペン・ハウアーという人はインド哲学や仏教に精通していたらしい。そして、アドラー心理学は、仏教と似たような考え方をしているところがあるので、実は、仏教・インド哲学→ショーペン・ハウアー→ニーチェアドラー

っていう感じですべて繋がってるん違うのかな?と感じた。まあ細かなことは、またの機会にして今日は、ともかく 「マンガで分かるニーチェ」から気になったものを抜粋してみた(*≧∀≦*)。

     以下は、「マンガで分かるニーチェ」より。

ーそれぞれの眼にはそれぞれの世界が写っている。ー

    『虚しさに苦しむ人々のために、ニーチェは新たな生きる喜びを見出そうとした。その要旨を理解するためにまず押さえておきたいのは、「人は誰もが自分の解釈で世界の姿を理解している」というニーチェの指摘。万人に「共有」できるものなど、この世には存在しないのだ。』

   ー安易な優しさや思いやりは相手を見下す自己満足にすぎない。ー

ニーチェは『同情』を非常に嫌った。それは相手を自分より格下と見なし、まったく脅威を感じていない時に生まれる感情だからだ。どんな人をも対等と認める人なら、同情などしない。同情は卑しく、羞恥心を持たない人だけが抱く感情で、自分に対する自信のなさから生まれるものと考えたのだ』

 

ー人生とは瞬間を生きることの連続であるー

  『自分の生き様を善い生き方、悪い生き方などと人に決められる筋合いは本来ない。自分が望むままに生きることこそ、最も人間らしさを、つまり最も本来的な自分の価値を肯定した生き方だとニーチェは考えた。人が決めたルールに囚われず、自分の欲求を肯定しながら生きるのだ。』

 

『人は、相手を軽視している限り、憎むことはない。相手を同等、もしくは一段優れたものと認めたときに、初めて憎む。』

 

ー自分が「やりたい」と感じるものに価値があり、正しさがあるー

『自分にとって何が正しいのか。何に価値があるのか。その答えを知っているのは、自分しかいない。周りの評価を気にして人生を選択しようと思うから、窮屈で空しくなる。自分は答えを知っている。そう信じて、大切なものを見直してみよう。「世間の目」を一度忘れて、本当に楽しめることを探してみるのだ。』

 

『動物から進化して人類が生まれたように、人間はまだ進化の過程にある。そして、その進化を遂げた先に超人という存在をニーチェは思い描いた。人間にはまだ可能性がある。今の人間を乗り越えた先に、新しい生き方の高みがあると考えたのだ。

   与えられた価値観を疑いもせず受け入れ、家畜のように群れる者たちをニーチェは「蓄群」と呼び軽蔑した。自らの弱さを正当化する蓄群の生き方は、もはや受け入れられない。「みんなのため」という利他主義ルサンチマンの表れ。そんな卑屈な奴隷道徳から解き放たれ、新しい価値観や生き方、より高貴な道徳を見出さなければ、という』

 

『怪物と戦う者は、そのため己自身も怪物とならぬよう気をつけるがよい。お前が永い間深淵を覗き込んでいれば、深淵もまたお前を覗き込む。』

『自分の不遇を他者のせいにすることが当たり前になってくるような人間は度が過ぎれば「敵」に対して悪だのなんだのと罵るうちに自分自身がどんどん醜くなっていくものだ。』

 

ー言い訳は挑戦を遠ざけ自分を弱くするー

『人間は言い訳の天才だ。親が悪い、学校が悪い、社会が悪い...。だが、そう思う一方で「自分は悪くない。むしろ正直に頑張ったから不幸なんだ。」などと考えるのは、楽をしたいだけの甘えだ。」人は「今この条件で」勝負するしかない。そうするための勇気を見つけよう。』

 

『自分に道徳的敏感さや道徳的眼識の繊細さがあるということに、大いに重きをおくような人間には用心するがよい。こういう人間は、自分がひとたび我々の面前で(あるいは我々に対して)しくじりを犯したとなると、それを根に持って決して我々を赦すことがない。』

 

ルサンチマンという言葉をニーチェは、「強弱に対して弱者が持つ怨恨や復讐感情だ」として新しく使った。例えば、「正義は必ず報われる」「神はすべてを見ている。そして、後から公正な裁断をしてくださる」「悪は必ず倒される」といった言い方や考え方の奥底には、このルサンチマンがあるとした。

   つまり、ルサンチマンは、相手を凌駕できない無力さ、しつこい嫉妬などから芽生えてくる。もし、自分に特有の力があり、その点で誰をも敵とみなすことがないならば、ルサンチマンは生まれようもない。従って、ルサンチマンは弱者に多く見られるものとされる。

   ニーチェは、道徳や善悪の起源は弱者のルサンチマンにあるとした。強い者は望むままに生きる。彼らにはその生き方こそ善だ。だが、その陰で圧倒的多数が敗者・弱者となる。弱者は自分たちを正当化するため善悪・道徳・倫理といった価値観を創造した。「自分たちのほうが実は高みにいる」と言い聞かせてきたのだ』

 

ニーチェは、すべての現象は「力への意志」のせめぎあいから生じている、と考えた。力への意志とは、あらゆる存在に宿るバイタリティのようなもの。生命活動や物理現象、社会現象、歴史の発展や文化、思想の移り変わりなどのあらゆる事象は、そこに関わる存在たちに宿る力への意志がせめぎあい、なんらかのバランスとして現れることで生じていると読み解いたのだ。

   あらゆる存在に宿る力への意志は、より強く、より多く、より高く、より広く、より深く、より徹底的に....と、ただひたすら自らが増大することを目指す。そこには、より豊かさを求めて広がろうとする能動性があるのみ。善悪の基準や主体性、目的などはない。あらゆる次元、場所において、自らを大きく、豊かにしようとしていくだけだ。そして世界は、この力への意志の拮抗で成り立っている。自然界の現象で見ると、例えば、月と地球の間に引力と遠心力が互いに働いていることでバランスが保たれ、月の軌道が定まる。これは地球と月に宿る力への意志が押し引きした結果。そこに意図や目的、真理などは存在せず、異なる力が拮抗して、せめぎあうことで全体としての調和が保たれるのみだ。』

 

ー自分にとって「一番正しい選択」は身体が知っている。ー

ニーチェは、精神と肉体を分けて、前者を優位とみなす西洋哲学の伝統的な立場を否定し、身体こそ理性である、と説いた。「本当の気持ち」は身体に宿る。心よりも、身体に耳を澄ませることで、人間は「本当にやりたいこと」に気づけると考えたのだ。』

 

ー人生のすべてを受け入れすべてに価値を見出すー

ニヒリズムを徹底すれば「すべては等しく価値がない」。つまり「あの経験は大きかった」のように、他よりも大切な出来事など存在し得ない。

    今の自分の姿には、過去のすべてが等しく影響しているのだ。そのすべてを受け入れるか、否定するか、人生観は二択しかないのだ。』

 

『弱々しく、薄っぺらで、消えてなくなりそうな、自分で自分を否定し否認するような人格は、もはやこれぞという事柄には何ら役に立たない。偉大な問題は、どれもこれもみな、偉大な愛を必要とする。そして、偉大な愛を燃やすことが出来るのは、確固として自己自身に立脚している剛毅で円熟した泰然たる精神の者たちだけである。』

 

『私たちはつい「もし〜でなかったらば」という形式で物事を考えてしまうことがある。現実の結果を見ているのに、その結果を受け入れたがらず、もっと好ましい結果を得るためには、あらかじめどうすればよかったのか、などと考えるのだ。他愛のない想像のお遊びの範囲ならば害は少ないのだが、こんな仮定の話を自分や他人の人生について真剣に行うと、後悔と懺悔に満ちた日々を送ってしまうことになる。実際、「こうすればよかった」「ああ言えばよかった」と、過去ばかり振り返って人生を無駄に送っている人は少なくない。彼らは人生には「良い人生」と「悪い人生」があり、自分の「良い部分」を選択的に生かせば、前者が近づくと考えている。

    この点、ニーチェは「今の自分はこれまでの自分から生まれてきたものだ」と現実的に考える。辛いことや耐え難いことに遭遇するのが人生というものだし、それらもまた今の自分を形成する要素の一つ。過去の自分という全体が、今の自分という全体に繋がっている。見たくない部分から目を背けるのではなく、しんどいことをも自分のものとして受け入れたとき、新しい強い自分がそこから生まれてくる。』

 

『楽しいことのみを選択できるマンガのような人生などあり得ない。もし、人が楽しいことのみを選択できるならば、そればかりに執心し、ほんの些細な嫌なことにも耐えられない脆弱な人間が出来上がるだけだろう。そんな人間は一日すら生きられないだろう。

    だから、人生の途上で起きることすべては必然。一切を受け入れていく必要がある。なぜならば、それが人間の人生だからだ。こうして「すべてに価値がない」ニヒリズムの世界は、すべてに価値がある世界に裏返る。

   ニーチェは身に起こる全てへの愛を「運命愛」と呼んだ。

   この自分の人生の日々を丹念に愛すること。それだけが大事だ。そのとき、一片の後悔も生まれなくなり、すべてが美しくなる。この美しさを味わわずに、どうして徒労に疲れ果てたまま死ぬことができようか』

以上、長くなってしまったのでこの辺で...

f:id:kazu7804:20180307231448j:image